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天使の子守唄

2018/08/12 14:04


天使の子守歌



山本里子は硝子戸を開けて眼下に展がるコンビナートの灯りにぼんやりとした眸をおとす。そこには、何千と言う光が、まるで恐山の夕暮れに燃える霊を招くローソクの火のように見える。その灯りは命を持ったように揺れている。風が走り炎を滲ませているのだ。灯りが揺れているように見えるのは、里子の眸が涙で潤んでいるからかも知れない。里子はあと少しで三十になろうとしているが、小柄で肉付きがいいから二十四五にしか見えない。頬に小さく沈む笑靨と僅かに斜視している眸が、可愛らしさと艶めかしさを漂わせていた。
ー辛いわ・・・こんな時、子供達がいてくれたらどんなに気が紛れるだろう。
母のところに預けている子供達のことを思う。新しい熱い涙が溢れ頬をつたっている。里子は涙をぬぐおうともせずに眺めている。その眸に灯りが溢れている。肩が小刻みに上下している。西から吹き上げてくる風は、工場の煙と化学製品からでる独特の饐えた匂いを、里子の住む小高い山に林立する市営住宅へと這い上がらせてきていた。裏山の木立が、枝葉を擦り合わせる悲鳴がしていた。
-あの灯りが夫を奪った。あの事故さえなかったら・・・。
二年前に製油所の脱流装置が爆発したときに巻き込まれて死んだのだった。下請けの社員だった夫は、僅かの慰謝料で命を引き換えたのだった。
高校を出て医院に勤める傍ら、看護婦の勉強をしていた里子の前に、夫は白馬に乗った王子さまのように現れた。直ぐに恋に落ちた。男が出来ると、最初の目的は消え、男との家庭を夢見るようになった。この人の赤ちゃんが欲しいと思うようになった。それは、里子が父のない家庭で育ったと言うことがそう思わせる原因になっているのかも知れなかった。小学校の時に、父は亡くなっていた。兄が父の役を担ってくれたが、やはり父のようには行かなかった。兄も結婚すると、構ってくれなくなった。異性に憧れる、その気持ちは強かった。父のように、夫のように優しくしてくれる男が欲しかったのだった。山本潤二は、里子の男性観にぴったりの男だった。とくかくわがままを包むように受け止めてくれた。看護婦の国家試験に落ちたのを機会に身内だけを呼んで形ばかりの式を挙げた。欲しいと思っていた子供は中々出来なかった。だけど、毎日毎日が彼女に取ってはかけがいのない日々であった。幸せと言う思いで見る世の中が総て美しく色鮮やかに彩られて見えた。二十三の時に、初めて懐妊した。優しかった夫が前にもまして優しくなり、里子の身体を気づかってくれるようになった。なんだかこの幸せが怖いように思えた。最初の子が出来て一年が過ぎ次の子が産まれた。四年間出来なかったのが嘘のように出来始めると怖いくらい妊娠した。年子では育児に困ると言うので、長男と次男の間に出来た子は中絶をした。夫は産むように言ったが、長男を産んだ後、里子は産後に体調を崩していたので首を縦には振らなかった。夫も里子の気持ちを判ってくれ中絶をしたのだった。次男を産んで一年目に、夫は事故に巻き込まれたのだった。賑やかであった家庭が火の消えたように静かになったが、それを知らない子供達ははしゃぎまわっていた。その姿を見る度に余計に哀しみが溢れてきた。人間の命がこんなに安いものだと言うこともその時に知った。途方に暮れた、前途が灰色の雲で覆われているのを感じた。
冷たい風に晒されベランダに立っていた里子の耳に、階下から嬰児の泣く声が立ち昇るように聞こえてくる。耳を傾ける。その泣き声はどこか身体の調子の悪い子供が母に訴えようとしている響きがあった。三階なら、狐のような顔に厚く化粧を乗せた口やかましい民子の部屋だ。あの人は子供の泣き声で体調の変化の判る母親ではない。別の部屋であって欲しい。
-子供達は元気だろうか・・・。
三歳と五歳のやんちゃの盛りでもある。スキンシップを一番大切にしなければいけ時期でもある。来年は下の子が幼稚園、上の子が小学校。子供達を引き取ってと里子は胸の裏に想いを馳せる。その想いは一層焦燥感と現在の立場を不安にさせる。
里子は一ケ月に一度は母のもとに預けている子供達に会いに帰っていた。もうその一ケ月が来ようとしているのだ。次の土曜日には帰ろう、でも、母に兄にどのように言えばいいのだろうか。お金を持って帰らなくては母も困るだろう。兄は良い顔をしないだろう。そのお金がないのだ。心も足も重い。子供達の笑顔が遠のく。逸る気持ちも萎んでしまう。もう雪が覆っているだろう。子供達に真新しい手袋の一つも買ってやりたい。が、ホームヘルパーの給金は安く生活費と付き合いで殆どが消えてしまう。だけど、その中から少しずつ食べる物を切り詰めて貯金をしていたが、来年の事を思うとどうしても礼服が欲しく、安かったからついつい後先の考えなく買ったのだった。そのために子供への送金まで手を付けてしまっていた。
「うちが元気な内はどうにかおまえの子らの面倒もみてやれる。が、もう年じゃけえなぁ。息子や嫁の顔色をうかごうて今じゃ小そうなって暮らしとる。うちは辛い。内孫と外孫が喧嘩をして、内孫が悪いとわかっとっても外孫を叱らにゃならん・・・。物の分別が判るだけに里子の子供達がどのように育つか心配でならん。一日も早う引き取ってくれ」
前に帰った時に母が涙を浮かべて言ったのだった。
「うん。私しだってどうにかしょうと一生懸命なんよ。もう少し待って」
その時、母にもうこれ以上甘えられないと思ったが、哀願したのだった。
「里子、今は昔のように町へ出稼ぐことものうなった。山に苗木を植え、僅かの水田に米を植えても食えりゃせん。今年一杯はどうにか世話をしてやるけえ、来年は引き取ってくれ。小学校に幼稚園、そうなりゃおまえの元に置くほうがええ。うちの奴もこの頃では川ぞいの町に出でパートをしとるんじゃ。スーパーで馴れんレジーを打っとる。それでようよう生活しとるんじゃ。早うええ人を見付けて再婚するか、子供達と一緒に生活が出来る金が貰えるところへ勤めてくれ」朴納の兄が重い口を開いて言った。
「うん、考えとるんよ。来年の春までにはどうにかしょうと考えとるんよ。・・・でもな、看護婦の免許でもありゃ・・・。なんの特技も身に付け取らんけぇ・・・」「夜の仕事があろうが」
「それは考えたわ、でも子供達のことを考えたら」
「里子、別れて寂しい思いをさせることと、子供達と一緒に生活することとを・・・」
「私は」
「誰も好んで夜の仕事はしてはおらんじゃろう。が、そうせいでは一家が一緒に生活出来んから、食べてはいけんから」
「おにいちゃん、夜二人の子供達を部屋に残して・・・。私はどんなに貧しゅうてもかまわん、一杯の粥を啜りおうても子供達との時間を大切にしたいんよ」
「だったら尚更じゃろうが。ここにおいとっては余計にその時間は持てまいが。子供達に取って何が一番欲しいか、親の愛じゃ。親の姿じゃねえど。生活するために何をして稼ごうが・・・」
「私は怖い。子供達の目が・・・」
「それは違う。子供達のために働く、そのことが母の生き方なら子供は・・・。そう考えるおまえの心の方が働く人を差別しておる事になるぞ」
「うん、判った。ように考えてみるけえ」
優しく諭すように言った兄の言葉に対しても、里子は何らかの答えを持って帰らねばと考えていた。この一ケ月近く考えたが、結論は出ていないのだった。ホームヘルパーを辞め、ホステスになることはたやすいが、果たして自分がホステスに向くかと考えると勇気がなかった。
ー辞めたい。
里子は遠くへ眸差しを投げて呟く。心の迷いがヘルプに戸惑いと自信のなさで現れていた。一つ一つが心に引っ掛かり前に進めなかった。いつもなら笑って済ませられることも、自己中心的に物事を考え相手の行動がどこから出てきているか、その心を見付けようとはしなかった。
今朝起きた時、里子の心は重かった。安木老人のところにヘルプに行く日になっていたからであった。安木老人は最初の頃は里子の行うヘルプに総て手を合わせて感謝の心を現していた。上品な顔立ちで、白髪の頭を丸く刈り、いつもきちんと着物を着ていた。言葉遣いも礼儀正しく、穏やかな目は潤んでいるような輝きがあった。だんだん馴れてくると、里子を見るその目の光が少しずつ変わってきた。それは男が女を見る欲望の色に代わり、里子は裸を見られているような恥ずかしさを感じるようになった。それで、いつしか身を庇うと言う本能が芽生え始めていた。怖い、そう思うとヘルパーは勤まるものではない。だから、その視線を避けるようにしてきたのだった。
里子はホームヘルパーとして七名を担当し、その人たちに週二回の宅訪スケジュールを消化しなければならなかった。先週のこと、安木老人はじっと里子を見詰め、「里子さんはいつ見ても美しいですのう。女の盛りと言うところですなぁ。他の男がほっとかんじゃろう。その白い肌が男を狂わしよるじゃろう。そんな人に介護してもろうて私は本当に幸せ者じゃと思うておりますんじゃのじゃ。いつもすいませんな・・・」
と言いながら手を握りに来たのだった。
「この手は一体誰の手なのかしらね。もう悪戯が出来ぬように縄で縛っておきましょうかね」
と、以前の里子なら軽口を叩いていなすところを、厭らしいものでも避けるように払ったのだった。そのようなことがあったし、今日は安木老人を風呂に入れる日に当たっていたので、余計に憂欝だったのだ。鏡に映す顔が何だか暗く見え、少し濃い目に化粧を乗せたのだった。生活の苦労が心の在り方を換え、余裕のなさが不信感を産み出していた。それが表情にもろに出て、硬く生…


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